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自己紹介

初めまして、バツ子です。
自己紹介させていただきます。

まず一言で表すと、私の人生は「他人に振り回される人生」でした。
本当は話したくない、人に話してこなかったことばかりですが、
人格形成に大きな影響を与え、
フリーランスを目指すきっかけにもなっているため、
このブログでは書き記しておこうと思います。

先にお伝えしておくと、人があまり経験しないような
ショッキングな出来事が多々ありました。
今となっては、それも全てよかったと思っていますが、
ずっと同じように辛く悲しい我慢はしたくない。
それらの経験は、現状を抜け出したいと私に強く思わせ、
自分の人生を、最上級に自由に楽しく生きる覚悟に繋がっています。

これまでの経験は全て、
私が考える「最高にハッピーな人生」を
迎えに行くための原動力になっています。
長くなりますが、お付き合いください。

大人の顔色を見て過ごす長女

父親に顔が似ているという理由で、
母親からサンドバックにされる幼少期。
その後、母親の不倫が原因で両親は離婚。
8歳で母を失い、自営業をしている父方の祖父母の元で育てられました。
父子家庭の珍しさから、周りに好奇心の目で見られたり、
祖母が水商売をしていたため、よからぬ噂を立てられたり、
目立ちたくないのに目立ってしまうことが本当に嫌でした。

父親の仕事は不規則な勤務で、一緒に過ごす時間はそれほど多くなく、
祖父が営む飲食店で大半の時間を過ごしました。
お店の常連さんが、家庭の事情を理解して私や妹と遊んでくれたり、
お年玉をくれたりと、たくさんのご厚意をいただいたことが
今の私を作る要素の一つになっています。

しかし、客商売というのはお客様のさまざまな事情が見えてしまうもので、
人間関係や人間性はドロドロしていることがほとんど。
小さな頃から、たくさんの人の表と裏を見てきたことで、
人はみんな、建前でしか生きていないのだと子供ながらに悟りました。

親ガチャ外れで、人生経験値が爆上がり

10歳の頃に父親が再婚し、継母にいびり倒されるターンに突入。
寝食の安全が確保されない、辛い時期を過ごすことに。

学校では、家庭の事情は一切見せずに過ごしました。
中学1年目は学年で一番上のカーストに属し、
友人もそれなりに多くいたものの、
友人同士の恋愛のもつれに巻き込まれ、
ある日から急に仲間外れにされます。
カーストからも瞬く間に大転落。
それをきっかけに、
これまで友人だった人にも無視されるようになり、
完全に孤立しました。

これまで薄々と勘付いていた、
「人は簡単に裏切るもの。調子の良い時に集まってくるだけ」
との思いが確信に変わりました。

部活にも入っていましたが、
道具を買ったり練習試合に行くお金に対して、
継母から嫌味を言われ、
気持ちよく続けることができなかったため、
中学2年の夏には退部。

そんな中で、自分が心から陶酔できるのは音楽とラジオで、
BUMP OF CHICKENの音楽を生きる糧として過ごしていました。
継母からの暴力に身の危険を感じ、着の身着のままで家出をしても、
CDだけは離さずに持って出ていたので、
今でも手元には彼らのインディーズ時代のCDが残っています。

高校1年目の秋頃には、父親の2回目の離婚が成立。
時を同じくして、親への反発から入学した
私立高校に不信感が募り始めました。
有名大学への入学者をいかに増やすかしか考えていない教師の振る舞いや、
生徒の個性は一切尊重されず、格式的に扱われることが不満でした。
同級生とも価値観が合わないことが苦痛に感じるように。
私立高校の特進クラスに通う、家庭環境に難のない同級生と、
父と妹と3人で同居し、家事は当番制で放課後は遊びにもいけない自分とでは
環境も価値観も違いすぎました。
このままでは得られるものもなく、学費がもったいないと思い、
公立で全日制の単位制高校に編入することを決断。

編入した学校は随分と特殊な学校で、
単位制高校な上に、全日制・夜間制・定時制、
それぞれの制度がある学校でした。
年齢層も幅広く、一度は高校を中退して入り直した人、
中学で登校拒否だったため、
学年制の全日制高校には通いたくなかった人など事情もさまざま。
さらにはご高齢の方で、当時は高等教育を受けられなかった方が
聴講生として授業を受けておられたり、
いわゆる普通の高校とは全くの異世界。

そこでは皆が干渉せず、お互いの違いを受け入れており、
理由のわからない古風な習慣や価値観はありませんでした。
人生で初めて居心地の良さを感じたと共に、
とても貴重な経験ができたため、
編入して本当に良かったと思っています。

やっぱり、家庭環境が邪魔をする

高校に入学し、ライブの醍醐味を知ってしまったため、
自分は「アーティストの想いを届ける」仕事がしたいと思い、
音楽系の専門学校で、音楽ライターを目指すコースに入学。
ライティング、デザインなど雑誌編集に関わる勉強をしました。

ライブの麻薬にどっぷりとハマり切っていたため、
自分もそれを作る側になりたい想いも強まり、
小さなライブハウスでバイトを始めます。
学費のこともあり、高校生から続けていた
コンビニのバイトと掛け持ちし、週6でバイト。
毎日3時間睡眠で、土日は12時間働く生活を続けました。
当然、そんな生活を続けていると
段々と学校に行くのが億劫になってきます。
今思うと、本当にやるべきことが見えていなかったのでしょう。
学校を休みがちになってしまったこともあり、
大したスキルを得られないままに、卒業を迎えます。
「学校のコネがあるからなんとかなる」と思ってしまっていたのです。

音楽雑誌の出版社は、ほとんどが東京にオフィスを構えています。
大阪から東京に上京し、フリーターとして
ライターの夢を追い続けるか否か…と考えていた時に、
祖父が脳卒中で倒れ、
幸い一命は取り留めたものの要介護となってしまいました。

お店を切り盛りする祖母、勤務が不規則な父、
自営業の伯母といった親族構成のバツ子家系。
必然的に私も介護要員となったため、
東京に行き、夢を追い続けることは現実的ではなくなり、
音楽ライターになる夢は諦めました。
当時は今ほどWebメディアが発達していなかったこともあり、
個人で発信する道があることなど、考えもしなかったのです。

何者かになりたくて、もがいた20代

音楽雑誌以外の編集はしたくないという無駄なこだわりから、
編集の仕事ではない全く別の仕事に就こうと決め、
大手通信事業者のテクニカルサポートの仕事に入職。

受電対応でクレームにやられようとも、
ひとまずは「石の上にも3年」精神で乗り切り、同業他社へ転職。
表側で対応する人から裏方に回り、
→社内ヘルプデスク
→業務効率化の仕組みを整えたり・データ分析
→営業
→新規業務ブースの構築・運営
→Webサイト改善
など、さまざまな業務に就きました。

なぜこんな多種多様な業務に就くことになったかと言うと、
在籍していた企業には定例異動の制度があったため、
基本的には3年間で異動します。
それに加え、私が担当していた裏方部門は
ニッチな仕事が多く、常に人員が不足していました。
とはいえ、人が足りなくてもなんとか業務を成立させないといけないわけで、
そうなると、誰かに白羽の矢が立ちます。(別名:生贄とも言う)

望んだ異動もあれば、そうでないことももちろんありましたが、
「若い時の苦労は買ってでもしろ」精神の祖父母に育てられたこともあり、
とにかく目の前のことには全力で取り組みました。

そのおかげで、会社からは良い評価をもらっていた方だとは思いますが、
自分のキャリアを考えた時に、
広く浅くでスキルが深まらないことを不満に感じるように。
ずっと何者でもない、フワフワと宙に浮いた感じに不安を感じていました。

そんな状態で7年ほど、その企業に勤めましたが、
途中、転職活動を2度行いました。
当時、私はデータ分析やマーケティング領域の仕事がしたく、
転職活動をしていましたが、2年やそこらの経験では経験者には入らない。
ですが、25歳を過ぎていたため、ポテンシャル採用もされづらい状態。
もちろん、自己アピールが上手くできなかった自分にも否はありますが、
日本で会社員として働くのは、
スタートを間違ったらやり直しが利かないし、
転職回数が多いのと同じように異動が多くてもダメなのか…と
何度も鬱屈した気持ちになりました。

当時同棲していた恋人との兼ね合いもあり、
転職は諦めて、自社のマーケティング部への異動を目指すことに。
念願叶って異動し、自身の人生史上で最も穏やかな日々を過ごします。

恋人とはお互い結婚をするつもりはないものの5年ほど同棲していましたが、
「好きなバンドと同じ周期で祝えるから」という理由からノリで入籍。

ほどなくして、仕事でラッキーチャレンジがやってきます。
当時、自社でも初めての取り組みになるWebマーケティングの案件に
専任として関わることに。
退職することになった前任者に
属人化していた業務を引き継ぐことになったため、
クライアント様にご迷惑を掛けないよう、死ぬ気でやりました。
当たり前のように休日返上で終電まで働き、
孤独とプレッシャーに耐え、
1人で年間1,200万円の売上を上げました。

ピーク時は酷かった残業も抑制し、
利益率を60%で安定させて、きちんと業績にも還元。

ですが、給与も賞与も変わらないのです。
なぜならば、人事評価制度は入社年数・職位ごとにランクが決まっていて、
その制度に則ってしか評価されないから。
その年の賞与は2回分を合わせて20万円。
あまりにも寂しすぎると思いませんか?

さらには当時、部署内では私が最も若手で、
他は入社年数が長く、職位が自分より高い人ばかりだったため、
必然的に稼働に対する還元バランスがおかしくなります。

他のメンバーは採算無視で
数十万円程度の案件を利益率10%以下で稼働させていたり、
生活残業をしていたり…。

私の年収は残業代を含めて、400万円に届くか否かでしたが、
りん議のハンコしか押さない、
パソコンのデスクトップ画面を眺めて一日を終える上司たちが
年収600万円以上も貰っていると知った時にはドン引きしました。

部署の誰よりも売上を上げても、固定評価なので待遇は変わらない。
働いてくれない上司のボーナスを稼いでくるだけ。
自分は一生、働きアリとして搾取される側なのかな…と思っていた頃、
私たち夫婦に大きな出来事が訪れました。

コロナ禍は確実に、人々の生活や価値観を変えた

コロナ禍の真っ只中だった2020年の夏、
私たち夫婦の人生を大きく変える1つの出来事が起こります。

コロナ禍をきっかけに在宅勤務をしていた夫は、
業務を上手くやりくりして捻出した時間を、
新しいスキルの習得に充てていました。
そんな中、尊敬している個人事業主の方から、
一緒に仕事をしないかと誘われたのです。

お互い干渉せずに、やりたいことはどんどんやっていこう!という夫婦だったので、
「良かったやん、やってみたら〜」ぐらいの気持ちでしたが、
話をよく聞くと、東京に来て一緒に仕事をしてほしいと。
そこに、私にも一緒に来て欲しいと。

私は東京への執着はすっかり捨てており、
大阪に骨を埋める気持ちでいたので、
その話は、すぐに快諾できるものではありませんでした。

というのも、入籍する前に一度、
当時は恋人だった夫に、
東京行きを打診したことがあったのです。

お互い転職活動をしていた時期で、
私には東京でチャレンジしたい仕事がありました。
その際、やっぱり生活しやすい大阪がいいのではという話になり、
東京には行かないという結論に至ったのです。
そこからの上京話ということで、
納得できない気持ちもありました。

ただ、彼のことを私は尊敬していましたし、
やりたいことを応援したい気持ちはあったので、
一緒に上京することを決めました。

しかし、なかなか本心では納得できなかったのでしょう。
気持ちが不安定になることが多くなり、
私は『行く、行きたくない』を何度も繰り返し、涙する日々。

結局、自身の仕事の現状なども鑑み、
ひとまずは夫に単身で上京してもらうことにしました。

女性は家庭とキャリアを両立することはできない

上京して激務が続く夫。
私も担当している案件の山場でバタつく日々。
連絡を交わすのは生存確認の「おはよう」だけ。
それでも、こちらが望むでもなく2週間に1度は大阪に帰って来てくれて
飼っていた猫2匹と家族で団欒しました。

2021年になっても新型コロナウイルスの蔓延が落ち着くことはなく、
離れて暮らしているデメリットが多くなってきたと感じるようになり、
退職の意を固めます。
担当している案件が落ち着いたら、ちゃんと仕事を引き継いで辞めよう。
そう思って春先まで過ごしました。

会社には退職の意を伝えた上で、折衷案があるか相談。
在宅勤務ができるなら、仕事を続けられるかもしれない
という想いがあったからです。
会社からの回答は残念なもので、
在宅勤務は恒常的な制度ではなく、
コロナ禍が落ち着いたら廃止するとのこと。
親会社の旧体質が顕著になった出来事でした。

またタイミングが悪く、コロナ禍の影響を受けて
東京の事業所を無くした後だったので、
東京に引っ越して、同じ仕事を続けることはできなくなりました。

その時に私は、『女性は結局、自由に生きられないのか』と思いました。
結婚がしたくなかった理由も、苗字が変わったり、
キャリアアップが不利になるシチュエーションがあると感じていたから。
子供が出来れば、望むような働き方は絶対にできなくなることを
周りの女性を見て痛感していましたが、
子供がいなくてもこうなるのか…と失望しました。

東京ですれ違っていく2人

友達も居ない知らない街に来て、
おまけにコロナ禍だったので、大した外出もできない。
仕事も一から探さないといけない。
何のために東京に来たんだろう?と思って過ごしていました。

猫を連れての長距離引越しと、仕事の引き継ぎに難航した心労も重なり、
しばらくはぐったりする日々が続きました。

そろそろ職探しに本腰を入れないとと思っていた頃、
ふとした会話の中で、『愚痴や不安ばかり言ってごめん』と夫に言うと、
『そうやな、甘えてると思う』と言われたのです。

生活費を全額出してもらっているわけでもなければ、
家事もほぼ私がやっている。
そして次月以降も、生活費の負担を求めているわけではない。
おまけに私は有休期間中。
そんな中での「甘えてる」発言には違和感しかありませんでした。

知り合いもいない街で不安でいっぱいの中、
唯一話せる人に愚痴や不安を話したら、甘えてると言われるとは。
自分で着いて来ることを決断したんだから、自分でなんとかしろと
彼が言いたい気持ちも理解はできますが、あまりにも寂しい発言でした。

その発言に憤った私はすぐに転職活動を開始。
ブランクなく職に就くことができました。
同じ轍を踏むことは避けたかったため、フルリモートの仕事を選びました。

入社した先はベンチャー企業で、
社長の仕事を巻き取るポジションだったため、わかりやすく激務。
夫も仕事が忙しく、会食に呼ばれて帰宅が遅くなることも多かったため
一緒の時間を過ごすことは大幅に減少。

夫、失踪する

ある日の夕方、仕事先に行ってくると出掛けたきり、
夫は帰ってこなくなりました。

初めは「頭を冷やしてるのかな」と思っていましたが、
仕事関係者から連絡を受け、
どうやら仕事も飛ばしてしまっている事実が発覚します。
刑事さんが家に来て、事件性がないか家宅捜索をされたり、
不安で慌ただしい日々が1週間続きました。

最終的に夫は見つかりましたが、多額の借金が発覚。
自己破産するしかない程度の額がありました。
金銭的な問題以外にも、
上京後から違和感を覚え始めていた関係性の歪み、
そして絶対にしないでと言っていた
「帰ってくると言っていなくなる」行為をされたことで、
関係性修復の余地はないと判断。
離婚することを選びました。

東京に居る意味もないので、環境を整えた後に帰阪。
結婚生活は2年と少し程度、
東京で一緒に過ごした時間は、わずか8ヶ月ほどでした。

自分の人生、舵は自分で取れ

離婚して大阪に戻るとなっても、
フルリモートの仕事だったため、
仕事は変わりなく続けることができ、
本当に有り難かったです。

しばらくは忙殺される日々に身を捧げていましたが、
このままの働き方をずっと続けることはできないなと感じました。
パワハラが容認されていたり、
役員の機嫌ありきの人事配置があるなど、
ここに居ると心が腐ると思うようにもなり…。

これからどうするか考えていた時に、
私は気付いてしまったのです。
これまで、身の周りの環境のせいにして
自分の人生を諦めていたことに。
人に自分の人生を重ねていたことに。

家庭の事情で、
・部活を続けることはできなかった
・フリーターになって夢を追い続けることはできなかった
・退職してキャリアを経つことになってしまった
などと考えていたことに加え、

・バンドマンの想いを自分が届ける
・彼が自由に生きてもらうことが自分の幸せなので応援したい
など、勝手に他人の人生に自分を重ねて、
自分で自分の人生を踏ん張ることから、
無意識に逃げていたのです。

びっくりですよね。他力本願もいいところです。
幼少期の頃は不可抗力で仕方がなかったとしても、
成人してからもその思考のままで居て、
なんだか楽しくない、満足できないとは随分と勝手な考えでした。

そこで私は、今度こそ自分自身で人生の舵を取り、
理想の暮らしを実現するために行動しようと思ったのです。

バツイチになった私の理想は?

学生の時から、組織に属するのが向いてないことは理解していた私。
靴下は絶対に白といった謎のルールや、
右に習えの仲間外れなど、
納得できないことに縛られたり、
同調しないといけないことが苦手でした。

会社員を辞め、いずれは自分で独立して、
飲食店をやろうかなと思ったことも。

ただ、これからの人生をどうするか本気で考えた時に、
飲食店を開くことは、少し不安がありました。

自分が経営者かつ店舗責任者として店頭に立つとなると、
・もし妊娠・出産したらお店はどうなる?その間の収入は?
・親族の介護が必要になった場合はどうする?
などの不安が出て、現実的ではないと感じるように。

そうなると、
・どこにいても仕事ができる
・時間の融通が効く
ことが、自分の理想の働き方として炙り出されます。

さらに、自分の特性を改めて振り返ると、
・良いと思った物事を広めるのが好き
・人のサポートをする仕事が楽しい
という側面があったので、
Webマーケティングの仕事はマッチするのではないかと感じました。

マーケティングは、「売らずに売る」仕組みを作るもの。
営業のようにゴリゴリ電話をしたり、訪問をしたりせずとも、
商品が気になりそうな人に対して、Web上で情報を提供し、
欲しいと思ってもらう状態を作っていく。
それがWebマーケティングです。

改めて日常に目を向けてみると、
私たちはWebマーケティングにたくさん触れています。
あることを検索したら、
その後にその商品に関する広告がよく出るようになったこと、ありますよね。
これも一つのWebマーケティングです。

これまでのような対面営業だけでは勝ち上がっていけない、デジタルの時代。
でも、そこに適応できていない企業や事業主は多い。
Webマーケティングの仕組みを考え、事業主の売上を上げるサポートをする。
これを、フリーランスとしてやってみようと思いました。

これまでの転職活動の中で、企業や業界が変わると、
培ったキャリアが評価されない場合が多いことを、
何度も痛感していたため、そこを抜け出したいとも思いました。

フリーランスは会社員のように安定はしていないけれど、
頑張れば会社員では届かない収入も目指せる。

基本的にはパソコン一つあれば、どこにいても仕事ができるし、
時間の融通も効きやすい。経験はどんどんと積み上げていける。

私はキャリアアップもしたいけど、自由に働きたい。
キャリアアップと引き換えに、
プライベートが疎かになるような人生にはしたくない。
フリーランスとしてWebマーケティングで事業に貢献し、
理想の暮らしを実現しようと、私は奮い立ちました。

30歳を過ぎてバツイチになって、
周りが自分を腫れ物扱いしているような様子も気掛かりでした。
でもそれって、誰が見ても安心できるぐらいに「楽しそう」じゃないから。
ならば人生を全力で楽しんで、
憐れまれたり心配されたりしない自分になろうじゃないか、と。

2024年は、推しのバンドが結成20周年を迎えることも
行動を後押しする要素になっています。
自身の結婚の周年と重ねていた、推しバンドの周年。
今度は自分の独立を、この周年サイクルに組み込みたいのです。

そして私は、会社員での給料の2倍にあたる月収60万円を
フリーランスで稼ぐという目標に向けて、
Webマーケティングが学べるスクールで、人生の舵取りを始めました。
このブログは、その序章です。

これからは、好きなバンドのツアーにたくさん行きます。
外食の時に、いつもなら我慢していた
一番高いメニューを迷いなく選んだり、
人生で1度も行ったことがない海外旅行に行って
ベネチアで運河を渡る舟を眺めながら仕事をしたり、
生活のための仕事ではなく、
「誰かのために」との想いを原動力にして仕事をする仲間と一緒に、
綺麗な湖が一望できる、だだっ広いコテージでワーケーションをしたり。

そんな生活を手に入れます。

誰だって、自由に生きていいはず

ここまで読んでくださった方は、
きっとこれまでの人生でたくさん我慢したり、諦めてきた。
そして、現状にも満足できていないのではないでしょうか。

これからの自分の人生は、自分で彩っていきませんか?
誰から見ても、「あの人は楽しそうでいいよね」と思われて、
決して憐れまれる人にはならないように。

やりたかったことをやるのも諦めるのも、最後に決めるのは自分自身。
キャリアも趣味も好きなことを全部やって、楽しく人生の折り返しを迎えませんか?
その道に進むヒントを、このブログに記していきます。

現状を変えたい気持ちはあるけど、何もできていない。
そういった状況なら、ぜひこのブログを今後も見に来てください。

きっとあなたが前に進むためのヒントが見つかると思います。