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辛い過去は武器にできる。33歳バツイチ女が人生リスタートを決めるまで

初めまして、バツ子です。

名前の通り、私はバツイチ女性です。
今は35歳ですが、32歳で離婚したため、
この先の人生は諦めの消化試合かしら…と思っていました。

幼少期に家庭環境が複雑だった境遇もあり、
世の中って生きづらいよなぁ…と思う気持ちがなくなったことはありません。

それでも私が今この記事を書いているのは
自分の人生を諦めない決意をしたから。

これまでの経験はすべて、
私がこの先しがらみに捉われずに仕事も趣味も欲張り、
最高にハッピーな人生を迎えに行くための原動力になっています。
長くなりますが、お付き合いください。

大人の顔色を見て過ごす長女

若くして結婚した両親。
私は20歳の母親のもとに、長女として産まれました。

父親に顔が似ているという理由で、
母親からサンドバックにされる幼少期。
その後、母親の不倫が原因で両親は離婚。

8歳で母を失い、大阪の郊外で自営業をしている父方の祖父母の元で育てられました。
父子家庭の珍しさから、周りに好奇心の目で見られたり、
祖母が水商売をしていたため、よからぬ噂を立てられたり、
目立ちたくないのに目立ってしまうことが本当に嫌でした。

父親の仕事は不規則な勤務だったため
祖父が営む飲食店で大半の時間を過ごしましたが、
お店の常連さんが、家庭の事情を理解して私や妹と遊んでくれたり、
お年玉をくれたりと、たくさんのご厚意をいただいたことが
グレずに育つことができた要因の一つです。

しかし、客商売というのはお客様のさまざまな事情が見えてしまうもので、
人間関係や人間性はドロドロしていることがほとんど。
小さな頃から、たくさんの人の表と裏を見てきたことで、
人はみんな、建前でしか生きていないのだと子供ながらに悟りました。

親ガチャ外れで、人生経験値が爆上がり

10歳の頃に父親が再婚し、継母にいびり倒されるターンに突入。
寝食の安全が確保されない、辛い時期を過ごすことに。

平成の時代に毛ジラミがわいたこと、
暴力に身の危険を感じて
3階のベランダから排水パイプをつたって裸足で外に逃亡したことなど
この時期の仰天エピソードは尽きないですが、
学校では家庭の事情は一切見せずに過ごしました。

中学時代は、友人もそれなりに多くいたものの、
友人同士の恋愛のもつれに巻き込まれ、ある日から急に仲間はずれにされます。
女子のスクールカーストは恐ろしく、
それをきっかけに、これまで友人だった人にも無視されるようになり、完全に孤立
これまで薄々と勘付いていた、
「人は簡単に裏切るもの。調子の良い時に集まってくるだけ」
との思いが確信に変わりました。

部活にも入っていましたが、
道具を買ったり練習試合に行くお金に対して
継母から嫌味を言われることに疲れたため、中学2年の夏には退部。

そんな中で、自分が心から陶酔できるのは音楽とラジオで、
BUMP OF CHICKENの音楽を生きる糧として過ごしていました。
継母からの暴力に身の危険を感じ、着の身着のままで家出をしても、
CDだけは離さずに持って出ていたので、
今でも手元には彼らのインディーズ時代のCDが残っています。

高校1年目の秋頃には、父親の2回目の離婚が成立。
家事を当番制でしていたため、あまり遊びには行けませんでしたが
継母のヒステリーに付き合わされるよりかは、幾分もマシでした。

時を同じくして、親への反発から入学した
私立高校に不信感が募り始めました。
有名大学への入学者をいかに増やすかしか考えていない教師の振る舞いや、
生徒の個性は一切尊重されず、格式的に扱われることが不満でした。
同級生とも価値観が合わないことが苦痛に感じるように。

私立高校の特進クラスに通う、家庭環境に難のない同級生と、
父と妹と3人で同居し、家事は当番制で放課後は遊びにもいけない自分とでは
環境も価値観も違いすぎました。

このままでは得られるものもなく、学費がもったいないと思い、
公立で全日制の単位制高校に編入することを決断。

編入した学校は随分と特殊な学校で、
単位制高校な上に、全日制・夜間制・定時制、
それぞれの制度がある学校でした。
通っている人の年齢層も幅広く、一度は高校を中退して入り直した人、
中学で登校拒否だったため、学年制の全日制高校には通いたくなかった人など
事情もさまざま。
さらにはご高齢の方で、当時は高等教育を受けられなかった方が
聴講生として授業を受けておられたり、
いわゆる普通の高校とは全くの異世界。

そこでは皆が干渉せず、お互いの違いを受け入れており、
理由のわからない古風な習慣や価値観はありませんでした。
人生で初めて居心地の良さを感じたと共に、
とても貴重な経験ができたため、
編入して本当に良かったと思っています。

これまで「普通でいたい、事を荒立てたくない」と自分の意思を出さなかった私が
初めて自分の本心で決めた、学校の編入。
学費を自分で払って、バイトをしながら学校に通うことは
親の養育という名の呪縛からも解放された気がして、少しだけ楽になれました。

やっぱり、家庭環境が邪魔をする

高校を卒業する頃には、ライブの醍醐味を知ってしまったため、
自分は「アーティストの想いを届ける」仕事がしたいと思い、
音楽系の専門学校で、音楽ライターを目指すコースに入学。
ライティング、デザインなど雑誌編集に関わる勉強をしました。

音楽雑誌の出版社は、ほとんどが東京にオフィスを構えているため
卒業後は上京するつもりでいましたが、
祖父が脳卒中で倒れ、幸い一命は取り留めたものの要介護の状態に…。

お店を切り盛りする祖母、勤務が不規則な父、
自営業の伯母といった親族構成のバツ子家系。
必然的に私も介護要員となったため、
東京に行き、音楽ライターになる夢は諦めました。
当時は今ほどWebメディアが発達していなかったこともあり、
個人で発信する道があることなど、考えもしなかったのです。

何者かになりたくてもがいた20代

音楽雑誌以外の編集はしたくないという無駄なこだわりから、
編集ではない全く別の仕事に就こうと決め、
大手通信事業者のテクニカルサポートの仕事に入職。
受電対応でクレームにやられようとも、
ひとまずは「石の上にも3年」精神で乗り切り、その後は同業他社へ転職しました。

表側で対応する人から裏方に回り、
・社内ヘルプデスク
・業務効率化の仕組みを整えたり、データ分析
・法人営業
・新規業務ブースの構築・運営
など、さまざまな業務に就きました。

なぜこんな多種多様な業務に就くことになったかと言うと
在籍していた企業には定例異動の制度があり、基本的には3年間で異動する流れでした。

わりと飽きが早い自分に、
定例異動制度は合っているのかもしれないと感じていましたが、
キャリアを考えた時に、広く浅くでスキルが深まらないことを不満に感じるように。
何者でもない、フワフワと宙に浮いた感じにずっと不安を覚えていました。

そんな状態で7年ほどその企業に勤める中で、転職活動を2度経験します。
当時、私はデータ分析やマーケティング領域の仕事がしたく、
転職活動をしていましたが、2年やそこらの経験では経験者には入らない。
ですが、25歳を過ぎていたため、ポテンシャル採用もされづらい状態。

もちろん、自己アピールが上手くできなかった自分にも否はありますが、
日本で会社員として働くのは、
スタートを間違ったらやり直しが利かないし、
転職回数が多いのと同じように異動が多くてもダメなのか…と
何度も鬱屈した気持ちになりました。

当時同棲していた恋人との兼ね合いもあり、
転職は諦めて、自社のマーケティング部への異動を目指すことに。
その後、念願叶ってマーケティング部に異動でき、
自身の人生史上で最も穏やかな日々を過ごします。

恋人とはお互い結婚をするつもりはない状態で5年ほど同棲していましたが、
「好きなバンドの結成と同じ周期で祝えるから」という理由からノリで入籍。

ほどなくして、仕事でラッキーチャレンジがやってきます。
当時、自社でも初めての取り組みになるWebマーケティングの案件に
専任として関わることに。
退職することになった前任者に属人化していた業務を引き継ぐことになったため、
クライアントに迷惑を掛けないよう、死ぬ気でやりました。
当たり前のように休日返上で終電まで働き、
孤独とプレッシャーに耐え、年間1000万円以上を売り上げました。
部署内で売上・利益率ともにトップとなりましたが、給与や賞与は変わらず。

なぜならば、人事評価制度は入社年数・職位ごとにランクが決まっていて、
その制度に則ってしか評価されないから。
その年の賞与は2回分を合わせて20万円。
あまりにも寂しすぎると思いませんか?

さらには当時、部署内では私が最も若手で、
他は入社年数が長く、職位が自分より高い人ばかりだったため、
必然的に稼働に対する還元バランスがおかしくなります。
他のメンバーは採算無視で
数十万円程度の案件を利益率10%以下で稼働させていたり、
生活残業をしていたり…。

私の年収は残業代を含めて、400万円に届くか否かでしたが、
りん議のハンコしか押さない、
パソコンのデスクトップ画面を眺めて一日を終える上司たちが
年収600万円以上も貰っていると知った時にはドン引きしました。

部署の誰よりも売上を上げても、固定評価なので待遇は変わらない。
働いてくれない上司のボーナスを稼いでくるだけ。
自分は一生、働きアリとして搾取される側なのかな…と思っていた頃、
私たち夫婦に大きな出来事が訪れました。

コロナ禍で変わりゆく2人

コロナ禍の真っ只中だった2020年の夏、
私たち夫婦の人生を大きく変える1つの出来事が起こります。

コロナ禍をきっかけに在宅勤務をしていた夫は、
業務を上手くやりくりして捻出した時間を、
新しいスキルの習得に充てていました。
そんな中、尊敬している個人事業主の方から、
一緒に仕事をしないかと誘われたのです。

お互い干渉せずに、やりたいことはやってOKというマインドの夫婦だったので、
反対する気持ちは全くありませんでしたが、
話をよく聞くと、東京に来て一緒に仕事をしてほしいとのこと。
そこに、私にも一緒に来てほしいと。

私は東京への執着はすっかり捨てており、
大阪に骨を埋める気持ちでいたので、
その話は快諾できるものではありませんでした。
というのも、入籍する前に一度、
当時は恋人だった夫に、東京行きを打診したことがあったのです。

お互い転職活動をしていた時期で、
私には東京でチャレンジしたい仕事がありました。
その際、諸々と話し合った結果、
東京には行かずに2人で大阪で暮らすという結論に至ったのです。
そこからの上京話ということで、納得できない気持ちがありました。

ただ、彼のことを私は尊敬していましたし、
やりたいことを応援したい気持ちはあったので、
最終的には一緒に上京することを決めました。

しかし、なかなか本心では納得できなかったのでしょう。
気持ちが不安定になることが多くなり、
私は「行く、行きたくない」を何度も繰り返し、涙する日々。

結局、自身の仕事の現状なども鑑み、
ひとまずは夫に単身で上京してもらうことに…。

女性は家庭とキャリアを両立することはできない

上京して激務が続く夫と、
担当している案件の山場でバタつく私。
連絡を交わすのは生存確認の「おはよう」だけ。

2021年になっても新型コロナウイルスの蔓延が落ち着くことはなく、
離れて暮らしているデメリットが多くなってきたと感じるようになり、
私は退職の意を固めます。

ご時世柄、在宅勤務で仕事を続けられるかもしれないという淡い期待もありましたが、
会社からの回答は残念なもので、在宅勤務は恒常的な制度ではなく、
コロナ禍が落ち着いたら廃止するとのこと。
旧体質な企業風土が顕著になった出来事でした。

またタイミングが悪く、コロナ禍の影響を受けて
東京の事業所を閉所した後だったので、
東京に引っ越して、同じ仕事を続けることは不可能に。

その時に私は、『女性は結局、自由に生きられないのか』と思いました。

結婚がしたくなかった理由も、苗字が変わったり、
キャリアアップが不利になるシチュエーションがあると感じていたから。
子供が出来たことにより、働き方に制限が出てしまうことを
周りの女性を見て痛感していましたが、
子供がいなくてもこうなるのか…と失望しました。

東京ですれ違っていく2人

これからの自分のキャリアに希望を抱く夫とは裏腹に
私は大した希望も持たずに上京。
友達も居ない知らない街に来て、
おまけにコロナ禍だったので、大した外出もできない。
仕事も一から探さないといけない。
何のために東京に来たんだろう?と思って過ごしていました。

猫2匹を連れての長距離引越しと、仕事の引き継ぎに難航した心労もあり、
しばらくはぐったりする日々が続きました。

そろそろ職探しに本腰を入れないとと思っていた頃、
ふとした会話の中で、「愚痴や不安ばかり言ってごめん」と夫に言うと、
「そうやな、甘えてると思う」と言われたのです。

生活費を全額出してもらっているわけでもなければ、
家事もほぼ私がやっている。
そして次月以降も、生活費の負担を求めているわけではない。
おまけに私は有休期間中。
そんな中での「甘えてる」発言には違和感しかありませんでした。

知り合いもいない街で不安でいっぱいの中、
唯一話せる人に愚痴や不安を話したら、甘えてると言われるとは。
自分で着いて来ることを決断したんだから、自分でなんとかしろと
彼が言いたい気持ちも理解はできますが、あまりにも寂しい発言でした。

その発言に憤った私はすぐに転職活動を開始。
同じ轍を踏むことは避けたかったため、フルリモートの仕事を選び、
ブランクなく職に就けました。

入社した先はベンチャー企業で、
社長の仕事を巻き取るポジションだったため、わかりやすく激務。
夫も仕事が忙しく、会食に呼ばれて帰宅が遅くなることも多かったため
一緒の時間を過ごすことは大幅に減っていました。

夫、失踪する

ある日の夕方、仕事先に行ってくると出掛けたきり、
夫は帰ってこなくなりました。

初めは「頭を冷やしてるのかな」と思っていましたが、
仕事関係者から連絡を受け、
どうやら仕事も飛ばしてしまっている事実が発覚します。
刑事さんが家に来て、事件性がないか家宅捜索をされたり、
不安で慌ただしい日々が1週間続きました。

最終的に夫は見つかりましたが、多額の借金が発覚。
自己破産するしかない程度の額がありました。
金銭的な問題以外にも、
上京後から違和感を覚え始めていた関係性の歪み、
そして絶対にしないでと言っていた
「帰ってくると言っていなくなる」行為をされたことで、
関係性修復の余地はないと判断し、離婚することを選択。

東京に居る意味もないので、私は環境を整えた後に帰阪。
結婚生活は2年と少し程度、
東京で一緒に過ごした時間はわずか8ヶ月ほど。

結婚するメリットとしてあげていた、
『何かあったときに法的に対応してあげられる』ということを
私はしっかりと有言実行して、私たち夫婦の結婚生活は幕を閉じました。

自分の人生、舵は自分で取れ

離婚して大阪に戻るとなっても、フルリモートの仕事だったため、
仕事は変わりなく続けることができ、本当に有り難かったです。

仕事自体にはやりがいを感じていたため
しばらくは忙殺される日々に身を捧げていましたが、
トイレに行く間が取れず膀胱炎になったり
ご飯の味がしない期間が長く続いたため
この働き方をずっと続けることは難しいなと感じました。

これからどうするかを考えていた時に、
私は気付いてしまったのです。
これまで、身の周りの環境のせいにして
自分の人生を諦めていたことに。
人に自分の人生を重ねていたことに。

家庭の事情で、
・部活を続けることはできなかった
・夢を追い続けることはできなかった
・退職してキャリアを経つことになってしまった
などと自分の諦めを環境のせいにしていたことに加え、

・バンドマンの想いを自分が届ける
・彼のやりたいことを尊重して、自由に生きてもらうことが自分の幸せなので応援したい
など、勝手に他人の人生に自分を重ねて、
自分で自分の人生を踏ん張ることから、無意識に逃げていたのです。

びっくりですよね。人任せもいいところです。
幼少期の頃は不可抗力で仕方がなかったとしても、
成人してからもその思考のままで居て、
楽しくない、満足できないとは随分と勝手な考えでした。

そこで私は、今度こそ自分自身で人生の舵を取り、
理想の暮らしを実現するために行動しようと思ったのです。

バツイチになった私の理想は?

学生の時から、組織に属するのが向いてないことは理解していた私。
靴下は絶対に白といった謎のルールや、
右に習えの仲間外れなど、
納得できないことに縛られたり、
同調しないといけないことが苦手でした。

周囲に無駄に気を遣ったり、時間や場所に縛られない働き方がしたいと考え、
在宅ワーク、かつフリーランスとしてできる仕事を探した結果、
Webマーケティングのスキルに真剣に向き合って、キャリアを積み上げたいと思いました。

なぜWebマーケティングを選んだのかをお話しすると、
・今のデジタル時代に必須のスキル
・世の中で需要があり、普遍的に求められる
・しっかりと知識をつけて経験を積めば、年収1000万円も夢ではない
・パソコンがあれば仕事ができるため、働き方の自由度も高い
・企業の成長に大きく貢献できて、自分の価値を高められる
といった理由からです。
ライフスタイルの変化にも対応しやすいことから、
女性の人生と相性が良いと言えます。
需要がある上に、自分の理想とする働き方ともマッチする、
それがWebマーケティングだという判断になりました。

これまでの転職活動の中で、企業や業界が変わると、
培ったキャリアが評価されない場合が多いことを、
何度も痛感していたため、そこを抜け出したい気持ちもありました。
フリーランスは会社員のように安定はしていないけれど、
頑張れば会社員では届かない収入も目指せる。
基本的にはパソコン一つあれば、どこにいても仕事ができるし、
時間の融通も効きやすい。経験はどんどんと積み上げていける。

私はキャリアアップもしたいけど、自由に働きたい。
キャリアアップと引き換えに、プライベートが疎かになるような人生にはしたくない。
フリーランスとしてWebマーケティングで事業に貢献し、
理想の暮らしを実現しようと、私は奮い立ちました。

また、30歳を過ぎてバツイチになって、
周りが自分を腫れ物扱いしているような様子も気掛かりでした。
でもそれって、誰が見ても安心できるぐらいに「楽しそう」じゃないから。
ならば全力で楽しんで、憐れまれたり心配されたりしない自分になろうじゃないか、と。

そして私は、会社員での給料の2倍にあたる月収60万円を
フリーランスで稼ぐという目標に向けて、
Webマーケティングが学べるスクールで、人生の舵取りを始めました。
このブログは、その一つの章です。

今はまだ、その理想を実現する途中ですが、
ここまでたくさんの理想を叶えることができました。

・好きなバンドのツアーにたくさん行く(武道館3daysに参加できた!)
・外食の時に、いつもなら我慢していた一番高いメニューを迷いなく選ぶ
・好きな仲間とワーケーションをする
1年前には見えなかった景色が見えてきています。

この先は、
・人生で1度も行ったことがない海外旅行に行く
・ベネチアで運河を渡る舟を眺めながら仕事をする
・四半期に1回は旅行に行って、四季折々でその土地の美味しいものをたらふく食べる
そんな生活を手に入れます。

誰だって、自由に生きていいはず

ここまで読んでくださったあなたは、
きっとこれまでの人生でたくさん我慢したり、諦めてきた。
そして、現状にも満足できていないのではないでしょうか。

これからの自分の人生は、自分で彩っていきませんか?
誰から見ても、「あの人は楽しそうでいいよね」と思われて、
決して憐れまれる人にはならないように。

やりたかったことをやるのも諦めるのも、最後に決めるのは自分自身。
キャリアも趣味も好きなことを全部やって、楽しく人生の折り返しを迎えませんか?
その道に進むヒントを、このブログに記していきます。

2025年1月現在、私はフリーランスとして活動しており、
このブログのコンセプトとして掲げている
会社員から月収30万円を得てフリーランスになるという目標は達成しています。
ただ、会社員での給料の2倍にあたる月収60万円を
フリーランスで稼ぐという目標までは、まだ踏ん張りが足りない。

このブログを通して、Webマーケティングのスキルを上げる様子を発信するとともに、
私自身が月収60万円を達成することで
ブログ記事を読んで実践すれば、スキルアップや理想の人生が実現できると
あなたに思ってもらえるように、発信していきます。

現状を変えたい気持ちはあるけど、何もできていない。
そういった状況なら、ぜひこのブログを今後も見に来てください。
きっとあなたが前に進むためのヒントが見つかると思います。

最後まで読んでくださり、ありがとうございました。